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2014.2.12佐藤義之先生・レベルアップ研修

NAKAGOME BLOG(ナカゴメブログ)

2014.2.12佐藤義之先生・レベルアップ研修

2014.2.12.(水) 10:30~12:00


テーマ 釈尊の教えから



@エルクレスト セミナールーム



講師は、日本橋清州クリニック院長、佐藤義之先生です




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釈尊はこのようなことを言っています。

 

・この世は、生きるということは「一切皆苦」である。

こういう考え方は、ヨーロッパでは、恐怖主義としてなかなか受け難くなっています。

釈尊は、一切皆苦について苦しい、毎日毎日が苦しいという意味で言っているのではありません。人生は思うとおりにならないものです。これを西洋でいうのであれば、不条理ということになります。

怯句教の中に、人間は心の生き物であると書かれています。

人生は思うとおりにならないのに、何とか思うとおりにしたいと考えるのです。

それがうまくいかなければ、結局のところ悔やみ、努めます。

その思うとおりにならない世の中で、それを悩み、苦しみ努めることを総称して苦と言いています。

その苦の元が煩悩であり、それから脱却するには、煩悩を鎮めるしかないと説いています。

 

これは、表面的な釈尊の教え、仏教の教え、大腿の僧侶の説明でこれだけの説明では、心の免疫に繋がらないのです。

本当に釈尊は、煩悩を鎮めるしかないと説いたのでしょうか。

釈尊は苦の真理を知ることが大事です。苦の真理を知れば、おのずと煩悩が鎮まると言っているのではないでしょうか。苦を知れば、知るほど、感謝の念が出てくるのです。

 

一切皆苦をどう受け取るか、どう解釈するか、それによって自燈明になるのです。

 

貧しければ貧苦があり、病気の時には病苦があり、長寿であればそれなりに苦であり、お金があったらそれはそれで苦も多くなります。

 

 

・苦しみという尊い心理を悟らず、通達しないがゆえに流転し、輪廻するのだ。(苦しみという尊い心理を苦しみの元を探そうとはせず、通達しないがゆえにどこか良いところがあるのではと流れていき、ただ輪廻するだけではなく、輪廻転生であるから生まれ方が変わる、次に人間に生まれるとは限らない)

 

 

最近、問題になっていることに食品偽装がありますが、これをお釈迦様は紀元前500年に予言していました。その予言が、「世の中が豊かになるほど、五濁悪世が起こる」というもので、五濁というのは、5つの汚れを意味し、そのうちの2つをご紹介します。

1つは、水や空気、食物、社会(中身の無い本など)という時代の汚れ。

もう1つは見濁というもので、一か所で見つかると、次々と事態が発覚していく社会全体のモラルの低下があります。

なぜモラルが下がるとのかというと、「ここまでは大丈夫だろう」という感覚です。身近なところでは、つい最近までペットボトルをラッパ飲みする人はいませんでしたが、今では、和服でも人前でもラッパ飲みが当たり前になっています。

自分たちの中では、それがモラルを低下させているという認識が無いのですが、それが「苦」なのです。

このような状態になることをお釈迦様は、五濁悪世というお経の中で予言していました。ですから一切皆苦というものを考える上で、このお経はとても重要なのです。

そして一切皆苦の「苦」の起こる先を探さなくてはなりません。

それは欲望(煩悩)

 

1. 貪(むさぼり):お経の中で「貪」は「よろずのものを貪る」とあります。したがって何でも欲しがることなのですが、実際には本人にはその自覚がありません。例えば「前年同月比」があり、何としても前よりも欲しがろうとする気持ちは貪り中の一つなのです。

2. 痴:なぜ貪るのか?それは賢くないからで、知恵が病気になっていと書きます。(痴であるから貪る、貪るから痴になる)

3. :腹が立つのは痴であるからか?欲が深いから腹が立ってくるのか?

 

貪、痴、瞋を三毒と言います。これは越えるに越えられない三途の川のことです。

苦の元であり、逃れることはできません。おしゃかさんでも逃れられなかったと言っています。

欲のために迷いが生じます。迷いが苦しみを作り出していきます。夜も眠れず、眠れえぬ者に夜は長しなのです。

 

愚以貪自縛

不求渡彼岸

為貪愛欲故

害人赤自害

                         怯句教より

 

 

 

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人間は幸せになるために考えます。その幸せとは何でしょうか?楽をすることなのか、便利になることなのか、合理主義なのかというと、そういうことではないはずです。

昔も幸せであったのではないのでしょうか。

私たちが子供のころの遊びは、石けり、縄跳び、かくれんぼ、お金は全くかからず、皮で石投げもしました。

楽をするということは、人間の持っている能力を使わないことではないでしょうか?

合理はまず道理にかなっていなくてはならないのではないでしょうか。

人間のやっていることはことをうまく進めているように思いますが、手落ちがたくさんあることに気づかなくてはならないのではないでしょうか?

 

エネルギー開発も進めて、原発をつくりました。しかし一度事故が起きると、止めても止めることができないということも知りました。

世界一を誇るトヨタ自動車も利益は上げていますが、本当に幸せなのでしょうか?

自動車をとにかく造り続けなくてはならないはずです。もう止められないのです。

しかもたった1つの部品が調達できなくても、車は完成しないのです。

家電メーカーも同じです。

ですから苦から逃れる道はなく、そういったことを自覚したとき、はじめてこの辺でちょうどいいのではという考えに到達するのです。

 

人はただ身の程を知れ

草の葉の露も重きは落つるものか

                           徳川家康

 

 

欲深き、人の心と降る雪は

積もるにつれて、道を忘れる

                           作者不明

 

宗教は、人間にとって必要なものなのでしょう。なぜなら人間の暮らしは、永遠に不公平が続くものだからです。不公平で理不尽だからこそ、もう一つの世界が無ければ救われないのです。思うに任せぬのが人生です。

悲惨な人間の一生を、少しも悲惨と感じることなく、希望と喜びをもって感謝しつつ、死を迎えられる道が宗教なのかもしれません。

 

道徳は目に見える世界ですが、宗教は目に見えない世界です。私たち日本人は、この見えない世界に豊かさを感じてきた民族です。見えない世界の実在性を感じてきた民族です。

 

そして、人間の力は凄いとか、偉いと思っているのかもしれませんが、自然の力の前には、無力であることを自覚するべきです。

人間は自動車をはじめ、様々な物品を作り出していますが、材料は皆、自然の大地の中から取ってきたもので、科学的にちょっとずつ変化させ、手を加えていますが人間が作った原料は何一つもありません。

いかに自然の恩恵にこうむっているかを考えた時、天と地に感謝しなければなりません。

現代人に気になるのは、おごりと高ぶりです。昔の人にあったものは祈りと感謝です。

 

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・お釈迦様からのメッセージ

 

お前はお前でちょうど良い

顔も、体も、名前も、背丈も、お前にちょうど良い

貧しさも、富も、親も、息子の嫁も、そのまた孫も

それはお前にちょうど良い

幸も不幸も喜びも、悲しみさえも、ちょうど良い

歩いた人生、悪くもなければ良くもない

お前にちょうど良い

地獄に行こうが、極楽に行こうが、いったところがちょうど良い

自惚れようもなく、卑下することもなく

上もなければ下もない

 

死ぬ日、月さえもちょうど良い

仏様と二人連れの人生

ちょうど良くないはずがない

これで良かったといただけた時、憶念の心が生まれます。

 

 

*阿弥陀教の最後の所に書かれていて「濁」とは「汚れている」という意味

 

1. 劫濁 ・時代の流れ:空気、水、食べ物、土

     ・社会が汚れている:出回っている本、テレビ番組、ネット情報など見るもの聞くもの→選ぶ力を無くす

・地球が汚れている:天と地

 

2.見濁  ・正しい教えが衰え、不正がはびこる。

      ・考え方、モラルがどんどん下がってしまう。ここまで大丈夫とペットボトルのラッパ飲み(昔ははしたなかったが、今は当たり前)

 

      世の中が少し豊かになる:傲りが出る

      更なる豊かさを求める:貪欲、諸行無常なのに右肩上がりを見ている

                感謝を忘れる

                中庸を忘れる

 

中庸とは「理性によって、欲望を統制し、過大と過少との両極の正しい中間を定めることで、それには知見を要する」

知見とは、物事を悟り知る知恵

 

「ちょうど良い」と受け止めることも、諦めでそう思うのではなく、立派に悟り得て思うことなのです。ですからちょうど良いと思う心に感謝が生まれてくるのです。

 

3.煩悩濁

4.衆生濁

5.命濁

 

五濁の悪世:段々、世の中が、人間の世界が汚れていくことを意味します。

 

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・黒白二鼠(こくびゃくにそ)

 

釈尊がコーサラ国のハシノク王に説いたものです。

 

「旅人が荒野を歩いていた。突然、ゾウに襲われ、空井戸に逃げ込む。下まで行くも、その空井戸の底には大蛇が上りはじめ、途中の石垣に手足をかけようとするも、その石垣の四隅に毒蛇がいた。ちょうど上を見上げると、黒いネズミと白いネズミが、自分がぶら下がっている蔓を噛んでいる。かじられて蔓が切れるとまずいので、旅人は蔓を思いっきり振った。その瞬間、木の枝の蜂の巣から蜜が一滴落ち、旅人の口に入った。旅人はその三つの甘さが忘れられず、再度思いっきり蔓を振るのであった。」

 

解説

荒野を歩いている:人生に公の目的無く生きている

ゾウに襲われる:福福はあざなえる縄の如し

底に大蛇:諸行無常、滅すること、死を意味している

四隅の石垣に毒蛇:世間、口うるさい隣人、親類縁者

黒いネズミ、白いネズミ:削られる時間、この瞬間も削られていく時間

一滴の蜜:そういう現実を忘れさせる欲(煩悩)

 

自分が危険なところに居るのに、手はだるい、下にもいけない。横にもいけない。上を見ればネズミが噛んでいる。ただ蜜が落ちてくることだけを楽しみに生きている。これは苦なのです。正に毎日我々がやっている事を、お釈迦様はお経にしているのです。

毎日、苦で本当は辛いのに、それを忘れさせてくれる蜜があって、苦に気が付いていません。苦から物事を考えて、捉える事ができないのです。不平、不満が残るのです。

 

ロシアの文豪トルストイ(仏教信者であった)は「この短い文章で、これだけの説得力のある教えを書いた釈尊は凄い。」と述べています。

「ある懺悔」という本の中で「仏教は心の方向転換」と書いています。

今まで見ていた同じものが、全く違って見えます。感謝できたり、喜んだりできるようになるのです。


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第1回 『ガンにならない生き方』
第2回 『ガンにならない生き方』
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